2007年01月10日

幸せって概念は...

時々書いてるしょーもない思いつき・落書き・妄想?です。
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最近、ブータンのGNHとか、GDPに換わるGWBだとか、
こういうの:幸せ、幸福の測り方 資本主義に「幸福にしてくれ」と頼んではいけない エコノミスト/NBonlineとか
なにかと幸せって言葉が目立つような気がするのだけど

私は最近
幸せって概念は麻薬のようなもの,追うと遠くに逃げていく蜃気楼のオアシスのようなもの,極めて危険な発明・パンドラの箱,人を不幸に落とす根元...なんじゃないかとかよく考える。

きっと、幸せって概念は、二元論的世界観が世の中を支配するようになる以前には、人が持っていなかった概念なんじゃないのか?
とかも想像する...本当のところはよくわからないのだけど...

幸せの状態ってのは、無限に幸せでない状態と、無限により幸せな状態っていう2つの極の中に1軸で無限に存在するわけでしょ?

でもさ、幸せを構成するとされる要素を断片的に取っていくと、生理的欲求にしろ、安全欲求にしろ、帰属・愛情・安心も、自尊も...無限って言うのはなくてさ、
いや仮にあったとしても
そういうのを全部足していっても、おそらくは究極の幸せってのは得られないのだよね。

幸せってあまりに観念的なものだから、「より幸せ」な状態ってのがあるのじゃないかと永遠に追い続けることができる。

お腹いっぱいとか、友達が欲しいとか、そういう具体的なことなら、充足点があるはずなのにね。

幸せって概念には、多くの悟りを持てない人々を幸せ競争に誘うところがあって、
充分に満たされているハズでも、隣のクルマがより高価なもので、隣の奥さんがより美しく、隣のヤツがもっと給料や職階が高かったりすると、それと比べて、不幸せを感じたりするっていうナンセンスな...例えば、その高価なクルマなんて別に所有欲・顕示欲以外には、自分の車と何も本質的には変わらない・何も満たしてくれないとしても欲しがらせるってのがあるわけじゃない。

つまり意味のない・くーだらない努力に目を向けさせる・煩悩をかき立てる効果だよね。

それこそ本当の幸せ...例えば自分が純粋にやりたかったこととから...本来の意味での自己実現のようなものから目をそらさせる効果なんてのがある。

だって、「あなたは天国に行けばもっと幸せになれる」って説得力たっぷりに宗教に言われれば、人は喜んで死を望んだりさえしちゃうわけでしょ?

そうそう、これは極めて曖昧な記憶なのだけど、昔なんかの本で、
「幸せ」って概念を持たなかった未開民族...この言葉はどうなのかな...まーいいや...っていっぱいあったのだよね...自信ないけど...そんなことを読んだような聞いたような気がする。
彼らに、病気やいろんな苦しみとかを表現する言葉もあるし、そういうことから逃れられた状態の表現もあるけど、より抽象的に全部ひっくるめて「幸せ」って概念はないのだって。

...いまちょっと検索してみたけど、出てこなかったな...勘違いかな?...わかんないや。

幸福感についての研究ってのもいろんな角度から...社会的・心理的・生理的いろいろあるけど...幸福遺伝子なんてのもあるよね...、それはそもそも本当に「幸福感」なのか?
幸福っていう概念があるから、「幸福な状態」って認識するんだよね。

本来それはいろんな種類の欲求が満たされた状態であるとか、脳が快楽信号を出してる状態であるとか...そういうことでしょ?

...つまんないところに行ってしまった。

もとい、大抵の調査では、
豊かさは幸福と関係があるけど、一定の物質的な豊かさのラインを越えると、殆ど関係なくなる...例えば、先進国だと大抵は年収1500万相当ラインだよね。
安全、安心なんかも同じ。
一定以上過剰に追求するとむしろ不幸の元だ。
じゃーなにをどのくらい配合すると幸福ってできるのよ?って思わない??

それにだいたい、不幸の要素とも言えるもの...克服すべき・そして克服可能なチャレンジ課題・適切なストレス・刺激がないと、達成感っていう現実的にはとても重要な幸福の大事な要素も満たせないのだよね。

ノーストレスだと、早死に・虚無に襲われるわけで。

もちろん常時ストレスはそれこそ早死につながるのだけど。

益々、幸福のレシピが分かんなくなるよね。

不幸か、幸福かなんて考えることがナンセンスなんじゃねーの?
殆どの人は、そんなの人との比較でしか計れないのだからさ。
なんか「幸せ」って言葉に騙されてない?
って思うんだよな。

幸せを欲しい欲しい病を生むのだよ。この見事すぎる概念は。

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Happiness Is Not a Fish That You Can Catch.

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じゃー今さら幸せっていう概念を捨てられるかって言えば
これはパンドラの箱、知恵の実で
一度知ってしまったからには、捨てようもないのだろうけど。

できるのは、そもそもが曖昧な状態を示すこの概念に
よりよい、より具体的なゴール像を与えることだけだよね。

まーそれを古今多くの人が取り組んできたわけだけど。

例えば、創造価値の実現こそ幸福である...とかね。

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現実に戻って、幸せって概念は、あまりにスゴイから、
新たな欲望をかき立てるのが仕事の広告屋にとっては、つくづく素晴らしい言葉だよなって、もうずっと思ってるのだけど。
「しあわせ」っていいね

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もともと日本語で、幸せは、仕合わせで、
「巡り合わせ」のことなんだってね。

そうか以前は、これを聞いて一種の宿命論か?とか思ってたけど、
今にして思うとこれは奥が深いかもな。
「それでいいよ」の態度かもな。

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GNHだとかGWBだとか
社会的なレベルの関心・ゴール設定が
豊かさから、幸福へと換わりつつある時代ってのは
あらためて、これまでとは違ったレベルで
仏教とか流行りそうだな。

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やっぱ、今って、ある面中世とかに似てきているんだよね。

物質的な価値・リアリズムから
精神的な価値・象徴主義に重きをうつそうとしているわけだから。

アニメ文化の世界的な浸透とか関係ありそうだよね。

だって、芸術もさ、ずっと以前は、象徴的な表現からリアリズムにずっと「進化」してきた
なんて考えてたわけだけど、
今は、例えば、兵馬俑の発見だったり、遙かに古いものでも、物質的な関心が極めて高まっていく時期はリアリズムに振れて、そうじゃないときは、シンボリズムに振れがちって分かってきてるのだからさ。

例えば、キティちゃんを一度文面が断絶した数千年後の人が発掘したとして、
これを「たんに原始的なもの・現実を捉えて描写する能力の欠如」と捉えるか否か。

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実際のしあわせ追求の難しさって、現実・物質と精神、外面と内面の両方を見ないといけないからだよね。
幸せの土台は、物質的なところ・現実世界・外面にあって、その土台がある程度できないと幸せにはなり得ない。
だけど、その後は、内面の充足に目を向けて行かなきゃ、いつまで経っても満たされなくなるわけで。

禁欲主義にも快楽主義にも答えはないし、どっちも答えだ。

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それにしてもなんにしても、一定の物質的な豊かさを得てしまった後は、資本主義はいかにも使い勝手が悪いよね。
より人を幸せにするやり方としては向いてないようにしか思えない。

以前にも書いたけどすべてをのっぺりと交換可能にしていってしまう資本主義の力は、最近は、下手すると、
「愛の算定」にまで踏み込んでいるわけだよね。
...だって、愛情の損失補填を慰謝料とかで算定したり、結婚前に予め契約で数値的な条件を付けておくってのはそういうことだからね。

もちろん、じゃー代わりのしくみって何よなんて、オレみたいなのには、間違っても聞く人はいないだろうし、もちろんノーアイデアなのだけどさ。

そうだ、どっかの経済学者が、資本主義の究極のゴールは、富の増大じゃなくて自由の増大だって言ってたっけ?
本当にそうなのかな?
そうならなんか期待しちゃうけど。

でも、自由の増大が幸福の増大に直結することはなさそうだよね。

自分基準で・好きを基準に動ける人だけだよな。

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もっと私に合った仕事があるはず。
もっと私に合った人がいるはず。
もっと...
って漠然と思い続けて、
今現在に地に足が付かない病気ってのは
しあわせ追求病のバリエーションだよね。

もちろん極めて具体的なゴールイメージを伴っていて
今やっていることととそのゴールがつながっているのなら
...結局達成できるか否かは別として、そこに向けた努力をしている今の自分になっているのなら
それはそれで良いこと。
...夢・ビジョンを持つことは悪い事じゃないと思うけどね。
posted by waki at 15:32 | Comment(0) | TrackBack(0) このエントリーを含むはてなブックマーク
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